我だにも まづ極楽に 生まなれば 知るも知らぬも みな迎へてむ
(私だけでもまず極楽に生まれることができれば、 知っている人も知らない人も、みんな極楽に迎え入れよう) 源信僧都(新古今和歌集)
解釈
この和歌は、浄土思想を背景に、極楽浄土へ往生したいと願う心情(菩提心)を表現しています。源信僧都は、仏教の信仰に基づき、自らが極楽に往生できた暁には、親しい人もそうでない人も分け隔てなく迎え入れ、救済の喜びを分かち合いたいという慈悲深い心を詠んでいます。
特に、「知るも知らぬも」という表現には、人間関係の親疎に関わらず、すべての人を平等に慈しむという普遍的な仏教精神が込められています。「まづ極楽に生まなれば」という前提からは、自らの修行や信仰を通して極楽往生を目指す強い意志が感じられます。この歌は、自己の悟りだけでなく、他者への救済も願う大乗仏教の思想(菩薩道)を象徴しており、広い心で人々を救済するという崇高な理想を詠んでいます。
私感
このような慈悲深い歌を詠んだ源信僧都に、私は深い感銘を受けました。まるで菩薩のようなお方だったのではないでしょうか。新古今和歌集を編纂した方も同様に感じたことでしょう。源信僧都の教えが時代を超えて支持されている理由がよく分かります。私自身は、まだ信仰を深めることで精一杯で、他者を救済することまで考えが及びません。
背景
源信僧都は、およそ千年前の平安時代に「往生要集」を著したことで有名です。その思想は、法然や親鸞など、後世の浄土教に大きな影響を与えました。浄土真宗を開いた親鸞は、自らの教えの基礎を築いた七人の高僧に、源信僧都と法然聖人を挙げています。
源信僧都は、9歳で比叡山延暦寺に入山しました。優れた才能を持ち、15歳で『称讃浄土経』を講じ、村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれるほどでした。そして、下賜された褒美の品を故郷の母に送ったところ、母は源信を諌める和歌を添えてその品物を送り返したという逸話が残っています。母からの手紙を受け取った源信僧都は、出世や名声を求めることをやめ、横川にある恵心院で念仏三昧の求道者になったといいます。これは、母の深い愛情と、それに応えた源信僧都の誠実さを示す感動的なエピソードです。
後の世を 渡す橋とぞ 思ひしに 世渡る僧と なるぞ悲しき
(まことの求道者となり給へ)
解釈
「あなたが後の世(来世)に渡るための橋となる立派な僧になると信じていました。それなのに、今では世俗の名利を求める僧となってしまったことが、母として悲しく思います。」
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「後の世を渡す橋とぞ思ひしに」:母は息子である源信が僧侶として修行を積み、人々を来世の救いへ導く「橋渡し」のような存在になることを期待していました。この「橋」は、仏教において悟りや救いへの道筋を象徴する言葉としてしばしば用いられます。
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「世渡る僧となるぞ悲しき」:しかし実際には、源信が世俗の名利に関心を示し、悟りを目指す僧侶らしからぬ振る舞いをしているように見えることに対して、母として嘆き悲しんでいます。「世渡る僧」という表現には、理想から外れた姿を批判する意味が込められています。
この歌からは、母が息子に対して強い期待を抱きつつも、彼がこのままでは仏道を極めることができないのではないかと憂慮する気持ちが読み取れます。この和歌を送ることで、母は自らの願いをはっきり伝え、源信を真の求道者へと立ち返らせようとしたのでしょう。息子を本来の道に戻そうとする、愛情深い叱咤の言葉であると言えるでしょう。
母への恩返し
この母に恩返しをしたエピソードが残っています。源信僧都の母が病床にあったとき、阿弥陀仏への信心を得ていた源信僧都は、阿弥陀仏がどのようにして人を救うのかを母に伝えました。母の願いが叶い、安らかな気持ちで往生できたことは想像に難くありません。
我来たらずんば、恐らくかくの如くならざらん。 ああ、我をして行をみがかしむる者は母なり。 母をして解脱を得しめる者は我なり。 この母とこの子と、互いに善友となる。 これ宿契なり。
(もし私が(僧侶となって仏の教えを説くために)この世に生まれてこなかったならば、おそらく母上は(阿弥陀仏の救済を知らずに)このように苦しむことはなかったでしょう。 ああ、私を(僧侶の道へ)導き、(仏法を学ぶよう)励ましてくれたのは母上です。 (しかし今、母上は病に苦しんでおられます。けれども)母上に(阿弥陀仏の教えによって)救いを得させてあげられるのは、この私です。 この母と子は、互いに支え合い、励まし合う、かけがえのない存在です。 これは、前世からの深い縁によるものです。)